予告どおり、「あれっ」と思う話でもしておかないと

 
人間どうしても相性の悪い文章というものがある。
その文章がいいとか悪いとかではない。直感的にダメなものはダメだ。
が、直感のままにしておくと食わず嫌いになってしまうので、じっくりと読んでみる。なぜ、ダメって思ったかを分析してみる。そうすると、大抵、その理由が明らかになる。そして、ある種の傾向があることにも気づく。が、それは極めて個人的なことであるので、ここでは触れない。
 
いえ、私も論文っぽいものを書く場合には、
「誰々さんの何々が言うところのこのお話にもあるように、○○は××であるから・・・」みたいな文章を書くことは仕事上多々ある。それを否定する訳ではない。が、どうも、ブログでそれをやるのは面倒だし、自分自身がそういうのを読むのがうざいので、極力そういうものがなくても理解できる範囲の話にとどめているというのもある。
 
さてさて、最近の梅田望夫さんの「勉強」好き人間の一連のお話。かなり話題になっているらしいので、ちょこっと拝見させて頂いた。
やっぱり、どうもこの方が書かれる文章と私の相性は正直言って悪いようだ。今回もそれは変わっていなかった。
 
おそらく一連のお話の始まりは、「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと - My Life Between Silicon Valley and Japanというエントリー。
 
ここの、「音楽好き」や「野球好き」や「将棋好き」な少年の選択肢が、なぜプロの道(明言はしていないが、プロになって飯を食うのが大変とおっしゃっているところから、プロの音楽家プロ野球選手、プロ棋士などを指すのだろう)か趣味かの二者択一になるかからして、残念ながら理解できなかった。
 
だって、例えば音楽好きの場合、プロの演奏家や作詞・作曲などを含めたアーチストとしての活躍以外にも、音楽教室の先生や、幼稚園の保育士さん、ダンサー、CDショップなどの店員、レコード会社のバイヤー、評論家、DJ、ジャズ喫茶の経営や店員、音楽をある種売りにした飲食店やビーチハウスなどなど、それ以外にも音楽に関連したいろんな機会や選択がある。そして、それぞれのハードルはそれぞれあって、自分にあったものを選択すればいい。
 
だから、勉強好きの人々の話を聞かされても、現実味がまったく沸かない。おそらく、それは、「彼の知るところの勉強好きの人々」であって、私の知るところの人々とはまるっきり異なるからなのだろう。

よって、最新の彼のエントリ「「勉強」特権階級の没落 - My Life Between Silicon Valley and Japan」を読んでも、まったく実感が沸かないというか、違和感だらけなのだろう。そう考えれば、納得出来る。一流企業と一括りにしているところからして、私の感覚ではアウトだ。
 
まずは再建が必要な大企業の具体例を示して欲しいものだ。それからでないと、どう捉えたり評価したりしていいかすらもわからない。
 
そういう意味では、R30さんの最新のエントリ(マスコミ人の行く末は「没落」しかないのか?: R30::マーケティング社会時評も、私にとっては同じような感覚を与えてくれる。

「記者というのはそのままステップを上がっていくと経営者につながる」という、不思議なゼネラリスト信仰的キャリア観だ。

という一文が私を思考停止に陥らせるからだ。少なくとも私の知るところの記者さんを見る限り、「経営者」を目指すだけの物理的にも精神的にも余裕がないように感じているし、本人もまったくその気はないというか考えたこともないようだ、私と同年齢クラスで。
いや、全否定する気はない。上を目指す人もいるのだろう。
が、しかし、それが一般論として示されることには正直強い違和感がある。
 
個人的な経験を一つ語れば、
 ①我々の年齢になると、そして、私に近い歳の連中が、経営者との間に感じている距離と、
 ②我々より若い世代が感じている経営者との距離
とではかなり違っていたというのがわかったときがあった。
もちろん、①>②だ。

私の身の回りにいる同年齢の連中(もちろん私を含めて)にとっては、経営者になることへのあこがれはないし、目指すべきところでもまったくないからだ。なので、ステップを上がっていって繋がって欲しくないものなのだ。
それよりも自分達の専門の極めると面白い分野がたくさんあることを知っていて、人知れず極めていっているのだよ。だから40代はスペシャリストの宝庫と言われているのだ。
 
そういった流れは世界でも、そして日本の官庁や企業でも深く潜行して進んでいるように、少なくとも私には見えている。
 
そのとき大事なのは、時間をかけて積み上げた勉強力の成果なのだと思うし、今ここではっきりと実感している、少なくとも私が属する分野では。ただ、その積み上げ方がそれぞれ個人の才能、才覚や嗅覚により異なり、同様の結果を生み出せるということでもないが、それはひとそれぞれ異なるのだから、当然のことだろう。
 
ということで、直感で肌の合わない文章も、よく読んでみると、それなりに理由があるという話でした。
 
背筋も寒くなければ、太陽にも感じませんでしたという感想でおしまい。