私の中のおっちゃん

森毅さん、元京大教授。数学者、そして教育者。
この人の風体を見ると「おっちゃん」だなぁと思う。
 
いつから「おっちゃん」になったのだろうかと、ふと、考えたりする。
自分の記憶の中では、ずっと「おっちゃん」だ。
 
森さんにも子供時代はあっただろうし、学生時代や青年時代もあったはずだ。幼少期を過ぎたら、「おっちゃん」に直行したなんてあり得ない、いや、あって欲しくない。
 
かといって、いつ頃からおっちゃんになったのだろうか。


教育者にとって、「おっちゃん」になるということは、とても大事なことではないのだろうかと、実は思っている。
「おっちゃん」になるということは、親しみという点で子供や若者との距離を縮めつつも、あんた達とは違う「大人」であることを明示しているからだ。

親しみがあり、かつ「大人」の人の言葉には、その内容より前に、説得力が生まれる。
つかみはOKなのだ。相手側に受け入れる余地が作られなければ、何を語っても届かない。「ねぇ、おっちゃん、聞いて。」と呼びかけられた時点で勝ちだ。
 
簡単にその域に達することができる訳ではない。頑張ればいいってもんでもない。力の抜け具合が絶妙でないと。
 
なので、「親父」とはちょっと位が違う。
「エロ親父」、「クソ親父」はいても、「エロおっちゃん」、「クソおっちゃん」はいないのだ。

私もそんな「おっちゃん」になりたいと思っているのだが、いかんせん修行が足りない。
若さに妙な未練があったりして、それが捨てきれない。まぁ、無理して捨てることもないんだけれど。
 
「おっちゃん」という究極の芸を磨くために、日々頑張ってみるのも面白い。
 
ただ、一歩間違えると「妖怪」とか「魑魅魍魎」と呼ばれたり、「ボケ老人」(注:決して痴呆症の方を意味しているのではない。ワザとぼけたフリするたちの悪い親父のこと。)扱いされるので、なかなか難しい。

ただ、一つだけ気になることがある。
「おっちゃん」に恋は似合うのだろうか?

<追記>
女性には「おっちゃん」に相当するしっくりとする言葉が見つからない。「おばちゃん」はちょっと違う感じがする。「おばはん」も違う。「おばさま」もなんか違う。