一抹の不安というか懸念 −ブログやPJに紳士協定は成立するのか?−

安藤美姫さんの取材自制を求める申し入れがあったらしい。
(素敵ですよね、彼女。まさに氷上の天使のようです。)

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050331k0000m050021000c.html  フィギュア:スケート連盟、安藤美姫の取材自制求める

そして、この記事を目にしたとき、ふとライブドアPJのことが頭をよぎった。
また、ブログのマスメディア化、インターネットのマスメディア化についてもだ。
取材する側とされる側のボーダレス化。
誰でも取材可というのは果たして世間に受け入れられるのだろうか。
もし、仮に市民記者なるものが台頭して新聞、テレビなどに次ぐ勢力を持ちえたとき、果たしてその取材活動にある一定の歯止めはかかるのだろうか。

それにしたって、どこにだって人はいるもの。芸能人目撃情報なるものは一般市民の手によって、ブログなどに記載され続けることだろう。おっかけファンだって昔からいるし、ネットにはいろんな情報がある。たまたまばったり遭遇した出来事や、目にしたことをブログに書くことだってあるだろう。別にネットがなくたって、そんなことは、昔からはがきの投稿とかいろいろな形であったことだ。

でもね、市民記者ってどうなんだろう。


もし、今回のような自制を求めた際に、仮に各報道機関がいっせいに自制した際(誘拐報道などが代表例だ)に、市民記者にもその旨がきちんと伝わるのだろうか、また、自制というものが働くのだろうか。
仮に働くとしよう。ややっこしいのは、市民記者であり、また個人ブログを有するようなケースだ。市民記者として出せないのなら、個人ブログでなんてのを始められたらどうするのだろう。

だから、市民記者制度が普及することは、その制度によって市民記者にどの程度歯止めがきくのかなどの統制のきき具合の状況によっては、実はそう遠くない将来には大多数の一般個人ブロガーにとってのリスクとなりかねないのだ。

ブログというのはけしからんみたいな話がちらほら出始めているらしい。
もし、けしからんという風潮が高まったときに、紳士協定を突破するような事件が仮に発生したら、そのとき、その圧力に耐え切れることができるだろうか。
また、自らを正当化できる理論構築ができるだろうか。

そんなことを思うと、大多数の一般市民ブロガーにとって、早くも受難の時代が徐々に忍び寄っているのかもしれない。

ようやく醸成されつつあるブログ文化を大切に思うのであれば、またインターネットによるジャーナリズムの将来を期待しているのであれば、市民記者制度こそ、既存のメディアからつまらぬ揚げ足を取られぬよう率先して自らを律し、人々の信頼を勝ち得てもらいたいものだ。