好きと嫌い、良いと悪い、価値ありと価値なし、宝とゴミ

私には嫌いなタイプの物言いがある。
「レベルが低い」、「質が悪い」、「価値がない」、「ノイズだ」なんてことが無神経に発せられることだ。
そして、
「努力が足りない」とか「勉強しろ」なんて言う物言いも同様に嫌いだ。
「低次元の議論をするな」なんてのもそういう範疇に入る。
「くだらない○○」(○○には番組とか記事とかコラムとかブログとか人間とかいろいろ入る)なんてのも嫌いだ。

これは個人的な気持ちの問題であって、人にどうこう言われる筋合いのものでもないし、嫌いだから何か行動を取るかといったら、そんなことはしない。

ここで誤解をされては困るので補足説明しておくが、私の嫌いな物言いは、
例えば、
「こんなくだらない番組を子供に見せるべきではない。」という物言いが嫌いなのであって、
「このような番組は子供たちに悪影響を及ぼす可能性が大きい。」なんて物言いには嫌悪感を持たないし、むしろそうした理由がもっともなことであれば、大いに支持するだろう。

また、あくまでも、物言いが好きか嫌いかであって、その物言いをする人間が好きか嫌いかという話ではない。
人間的に好きだからといって、その人のすべての物言いが好きになるわけではないし、逆に人間的に嫌いであっても、好感を持つ物言いもある。


そこで、ブログ時評のこのエントリーだ。
ブログの現状はそれほど素晴らしいか(ブログの現状はそれほど素晴らしいか : ブログ時評

インターンネットの情報の99%はゴミであるというのは、生まれた当初から言われていることだ。もちろん、情報のやり取りをしている当事者にとっては、世間話であっても意味がある会話であり、ゴミかどうかは情報を探している人の立場による。キーワード検索が引き出してくれるリストは、その市民社会の知のレベルが現れているとも言える。はっきり言ってGoogleが返してくれる検索結果の質は、落ちている。言論は自由。だからこそ、ネットの書き手は考えねばならない。

というこのたった6行の文章は、実は、私にとってNGワードのオンパレードだ。

ゴミについて言えば、目利きでないものにはゴミの山に見えるものが実は宝の山だったりして、それがゴミにしか見えない人のことはほっとくとして、知のレベルとか質が落ちてるなんてのを唐突に口にされても困るし、やはり「ほっといてほしい」の一言に尽きる。
質なんてものはそもそも議論するだけ不毛だ。悪い例なんてのを挙げるのは容易なことだし、そんなことやり出したらキリがない。
質やレベルなんてものを見定める「共通のものさし」なんてありゃしないのにその質やレベルを誰がどうやって評価するのかね。それに議論の際に、「あんたのレベルは高いからいい、低いダメだ」なんてやり出したら議論なんてのは成り立たないでしょう。
例えばプロ野球の古田氏が社会人野球の連中はレベルが低いなんて発言したら問題になりませんかね。

BSEの件だって、
「あぁ、市井や専門外の人たちって傾向としてこういう捉え方してしまうんだ。」、
「そのあたりの情報伝搬について今後どのように工夫すれば、正しい理解が得られるようになるんだろうか」
というような発想に、どうして向かわないのだろう。
(まぁ、それ以外にも、「安全でない」と言い切ってはいても、それがイコール危険かどうかみたいなところに触れていないあたり、どうだかなぁと思うが。)

<追記>
記事引用をしているので、礼儀として引用元にTBをしておかないといけませんね。