どっちやねん?

そう、それは昨日の朝、通勤のためにいつものメトロに乗ったときのことだ。

いつもと同じ時間にいつもどおり4人掛けのボックス席の窓側の席について新聞を広げようかどうか迷って鞄をごそごそと漁っていた。そのとき真向かいの席に人の気配を感じたのでふと顔を上げたとたん、思わず息を飲んだ。

そのとき思ったことは2つ。
「きれいだ。」
そして、
「パリに暮らしてきてよかった。」

じっと見つめ続けて彼女に怪訝な顔をされても困る(=もったいない)ので、視線をはずし、なぜこの人はこんなにも美しいのかを冷静に考えてみることにした。

年齢は特に決して若いわけではない。おそらく35歳前後ではないだろうか。が、しかし、その落ち着いた雰囲気から醸し出される優雅な雰囲気はまるで上質なクラシック音楽それも室内弦楽を奏でているかのようだ。20代の見せるシャープな美しさとは異なり、時間をかけて磨き上げた高貴なジュエリーのようだ。洗練という言葉がふと思い浮かんだ。

パリでしばらく暮らしていると、異国の地の女性というものが次第にあまり気にならなくなり、むしろ逆の意味で目立つ個性豊かな男性やこちらではマイノリティであるアジア人の方に気を取られることが多い。

メトロで過去に気になった女性として記憶しているのは、昨年の夏、突然目の前に現れた、ほぼその身体的特徴を一瞥しただけで把握できるくらいにシースルーなロングドレス1枚と申し訳程度のパンティ1枚しか身につけていない20歳前後の若い女性を見かけて以来だ。
これは感動をしたというよりもむしろ嫌悪感を感じた。
いや、彼女は顔立ちを含め、人並み以上というかむしろ上の部類に属していることは誰の目にも明らかだった。が、しかし、やりすぎというのはよくない。

彼女は少なくともメトロの乗客としてはミスマッチだった。

話を元に戻そう。

髪はブロンド、目はターコイズ、そのかつてのダイアナ妃を彷彿させるようなエレガントな髪型や凛とした顔立ちは、アシュレイ・ジャッドが最も近いだろうか。
しかし、それ以上に秀逸なのが、その洗練され、かつ、さりげない彼女のファッションセンスだ。
丁寧に仕立てられた薄手のベージュの革のハーフコートの下には黒そして胸元あたりから赤をベースとしたチェックの生地に切り替わったスタンドカラーの厚手のシャツ、さらにそのシャツのボタンは赤くて細い革紐をくるくるっとまるめた感じにしてあり、うまくアクセントとして機能している。パンツはブーツカットのタイトなジーンズで、靴は焦げ茶のショートブーツ。
おそらくこの人は自分の体型というか身体的特徴というものを十分に把握しているのだろう、その上にどのようなものをまとえば美しく見えるかを見事に計算しているようで、かつ気取ったところを感じさせないのだ。
そして、首のまわりには薄手のシルク素材のバンダナ風のスカーフがアクセントとして効いている。

見事だ。

見事に歳を重ね、成熟した大人の女性を演出しながらも、さりげなく若さを誇示している。

女性というものはいつまでも美しさを重ねていくことができるのだと実感した。体が機能的に衰えていくのは仕方のないことだ。が、しかし、それを補って余りあるくらいの輝きを放つことが出来るのだと。

そういった女性の日々の積み重ねを私は今まで見過ごしてきたのかもしれない。この点は大いに反省すべきだろう。

そんな思いを胸にしながらそのメトロを後にして、職場に向かった。
その途中、ふと行き交う女性に目を向けると、その多くの人がさりげないおしゃれを楽しんでいるではないか。それは、スカーフやバンダナ、ハイネックのセーターだったり、胸元にちょっと目立つブローチだったり。それに比べて男性のバラエティの乏しさといったら目を覆うばかりだ。

このなぜか清清しい気分は今日も続いている。
洗練された粋な女性を目にすることにより得られるリフレッシュ効果は意外に高いのかもしれない。

大人の女性に感謝。