選挙の風物詩的なカリスマだった、「東郷健」さんと「赤尾敏」さん

子供のころ、政見放送と言えば、遠い大人の世界だった。特に、仲間内で、「おまえもう見たか」といった大人かどうかのリトマス紙的人物が「東郷健」さんと「赤尾敏」さんだった。
あの二人を見るだけで、大人の世界って○○(=不思議、怖い、すごい、えらいところだなどなど)と、ちょっと距離感を感じたものだ。大人の社会に入るということは、例え少数派だったとはいえ、ああいう方々ともつきあうと言うことなんだと、大人になるってことは大変だと思ったりした。
同様に子供の頃、親に連れられて、おそらく夜の7時か8時だったと思うけど横浜伊勢佐木町(+福富町)や歌舞伎町を通った時のことを今でも記憶している。
傷痍軍人や街娼の姿はそれがなんであるかを理解できずとも衝撃的だったし、街の匂い、ネオンのまぶしさ、連なる屋台に酔っぱらいの奇声や怒声などに圧倒された。
神社のお祭りだって、子供だけでは危険だったし、親も許可しなかった。
夜川に近づくと狸やカッパに引きづりこまれるし、お盆に海に入ると帰ってこれなくなると教え込まれた。
怖いこと、怖い場所だらけだった。だから、大人の場所に近づく子供は少なかった。
今の日本は、そういう怖いところを極力減らしていった。大人って怖いと身をもって感じる場所が隠されるようになった。そして、そういうことに鈍くなり、安心するようになった。
そうして、大人と子供の境目がなくなっていった。
だけど、本当に危険がなくなった訳ではない。
行き場を失い追いやられた人々が街に身を隠すように暮らし、ストレスというマグマをためざるを得ない状況に置かれている。
マジョリティにはマイノリティを極限まで追いつめる権利はない。
ここは子供は近寄ったらダメよと言い聞かされるリスクのある場所があったっていい。
臭い物にフタをするような世論はマジョリティの奢りだし、もしこれを煽るような風潮がマスコミにもあるならば、この点については責任を感じてほしい。
欧米の街では、多様性を持って成り立っている。危険な地域などいくらでもある。でもそれを無くしてしまえなどという暴論はない。夜のパリは危険すぎるくらい危険だが、日本のようなトラブルは少ない。
「ここは君たちが来るような場所じゃないよ」と日本では行き場を無くしてしまったようなタイプの大人がここでは余裕を持って子供たちをきちんと追い返してくれる。

選挙の立候補者に「東郷健」さんや「赤尾敏」さんの名前が連なるような日本はある意味成熟した大人の社会で誇らしかったが、今の立候補者リストは寂しい。
宗教がらみの立候補者は個人的には歓迎しないけど「又吉イエス」さんだけでは本当の日本の姿が見えない。
フランスには政党としての主張が「狩り」のことだけなんてのもある。

日本は今一度「大人」というものを見つめ直した方がいい。
きれい事ばかりを並べても、成立しっこないのだから。それぞれがそれぞれにとってのリスクとのうまいつきあい方を構築した社会が成熟した社会と言えるのだと、欧州社会を見ていて切に感じる。日本ではそのバランスが崩れてしまったのだろうか。
低年齢層の犯罪関与があまりにも多いように感じるから。